なぜポテチはいつもなくなっているのか

「生きづらさ」っていう言葉、使い方難しいと思うんです。

「私の人生は生きづらい」ということにしてしまうと、「みんなそうではないのか?」というツッコミが入るからです。「私のは特別生きづらい」っていうひとを見ると、それが確かに多大な痛みを負うように見えるものであったとしても、僕らはいらっとくるじゃないですか。「甘えか!」と。弱音を吐いているように見える人間に対して、僕らは厳しいわけです。「それは甘えである」というのは、「私が甘えられなかったのにお前はなにをいっているんだ」という「やっかみ」であると同時に、「乗り越えた私は強く、乗り越えられないお前は弱い」というマウンティングでもあるわけです。自分だけ損をするのは許せない。自分の分のポテチが少ないなら、だだをこねて、もしくは殴ってでも他人のと交換させる、たぶん僕らの精神構造は小さかった時分からあんまり変わってないんじゃないかな。

そして、僕らが特別いらっとくるのは「私たちの人生は生きづらい」という声だったりします。なぜって、いつの間にか自分が「私たち」をいじめた悪者にされているからですよ。僕らがいちばん嫌いなのは、「○○は自らが犯した罪を認めて正当な補償をせよ」という主張じゃないですか。そしてときおり、○○に自分の名前が入ってくることがある。日本人は、男は、高所得層は、団塊世代は、公僕は、芸能人は、左翼は、などなど。「私たちが生きづらいのは、お前たちが社会構造的にもしくは歴史的に優位に立ち、私たちに奴隷労働と飢えを強いてきたからだ。年下だからって力づくで押さえつけられてきた積年の恨み、いま晴らさでか。私たちが食べられたはずのポテチを即刻補償、あと土下座せよ」と彼ら彼女らはいうわけです。僕らは返すでしょう。甘えるなと。そもそも被害者の立場に居座って「自分には非はないからポテチの補償は当然である」という末っ子根性が気に食わない。いままでのことを悪く思わないこともないが、土下座なんてしたら面目丸つぶれだ。年長者の顔も立てられないやつに謝る義理などない。ポテチ食べちゃったし。この世は弱肉強食、弱い立場に居座ったお前の自己責任だ。絶対に謝ってやらねー。

書いてて思ったけど、これ兄弟喧嘩や。ポテチを例にだした望月のせいなのかもしれないが、人間同士の争いなんて所詮このレベルということなのかもしれない。感情の水掛け論である。どちらが正しいとか、本当のところはどうだったのかというのは兄弟喧嘩においては重要ではない。自分の逆立った感情を慰めてもらわないことには、収まりがつかない。正しさを主張しているように見えて、自分に先んじて折れてくれるのではないかと相手に甘えているというのが兄弟喧嘩の本質である。望月は思うのだが、甘える相手にいらつくかどうかは、はっきり言わせてもらえば相手がかわいいと思えるかどうかによる。可愛い末っ子がなぜ甘えられるのかといえば、年長者の顔の立て方を知っているからだ。甘えるなというのは不可能だ。ならば、甘えるときは「頼りがいのあるお兄さん・お姉さんとしての相手の顔をできるだけ立てろ」というのが人類普遍の真理ではないかと望月は思っている。だから、相手に即刻謝ってほしかったら、絶対に土下座しろなんていってはいけない。水掛け論が自己責任論に発展したが最後、人生のあらゆる局面での僕らに制御できないさいころの目まで全部「自分のせい」にしなければならなくなる。自己責任で覆われた人生はいきづらい。生きづらさの本質は、あらゆる事態を前にして飛び出す「で、それは結局だれのせいなのか?」という口癖にこそある気がする。だれを責めればよいのか、それを声高にいいたてて良いことなどほとんどない。僕らは本当はポテチを補償してほしいわけではないからだ。

なぜ私のぶんを残してくれなかったのか、その悲しい気持ちに一言「ごめんね。また買ってくるから」と言ってほしいというのが、いちばん真実に近いところなのではないかと望月は思っている。

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