11歳の私の行方

ジブリ『おもひでぽろぽろ』を観る。

30年前の上野や山形の景色に、東京オリンピック前後のパイナップルの扱いに、男女雇用機会均等法まえの職場の雰囲気に、キャーキャーいいながら観ていたら、終盤の切なさに殴られる。とてもいい映画だけど、せ、切ない…!

物語は、1980年代に生きる「27歳の私」が山形への旅行の途中でたびたび1960年代の「11歳の私」を回想するという形で進行する。小学5年生だった私は、夏休みにどこにも連れていってもらえなかった。だから、彼女は27歳の私の山形旅行についてきた。物語の終わりに、ギバちゃんの車の中で27歳の私はいう。「大丈夫、もう、小学5年生の私は連れてこないわ」。エンドロールが流れる中、ギバちゃんの胸に飛び込み、そのまま車で走り出す私を、当時のクラスメートたち、そして11歳の私が見送る。車が去ったあと、11歳の私は呆然と立ちつくす。その表情にはなんの感情もない。

望月は思った。「これ、E.T.だー!」。

『E.T.』は、人間の少年と宇宙人との友情の物語である。劇中での数々の冒険をとおして、地球外生命体E.T.は少年エリオットとの友情を深めていく。無二の親友となったふたりに、しかし別れの時が訪れる。E.T.が乗った宇宙船がついに宇宙へと帰るとき、その爆風に煽られるエリオットの顔へとカメラが寄っていく。宇宙船が星となって暗闇の彼方へと消えたとき、エリオットの家族は笑っている。「よかったね」と。しかしエリオットは違う。そのとき少年の顔は、ただただ呆然としている。当然だ。『E.T.』は友情の物語である。物語の終わりに、少年はついに見つけた心を分かち合える存在を、かけがえのない自身の半身を失ってしまったのだ。エリオットにとって、物語はハッピーエンドなんかではない。友達は人間でなくたっていい、ずっと大事にするはずだった大切なものを失って、エリオットは虚空をずっと見つめている。

このように、物語は、主人公たちにしばしば大人になることを要請する。

この文脈における「大人」とは、取り返しのつかないことをしてしまった人間のことである。自分のしたことが取り返しのつかないことであるということを知ったとき、大事なものを失ってこれからなにを頼りに生きていけばいいのかと人間は呆然とする。だがいつまでもそんなことを考えていることはできない。おなかがすくのだ。僕らは仕方がないから味のしないご飯を食べる。そして、たぶんそれでよいのだ。こんなときにお腹がすくなんてなんて薄情な人間なんだと、悲しみつづけられない自分を責めるのをやめて、明日のために布団に入らなければならない。そのとき、僕らは自分が大事なものなしで生きていけることを知る。そういうものだと望月は思う。

なにも知らない子どもは挫折と苦悩を抱こんだ青年になり、失ったものを取り返すことを諦めた人間は大人になる。

青年は、大事なものに執着している人間のことだ。彼や彼女はその苦悩すらも大好きで、自分が抱え込んでいるものがもっとも崇高な使命だといってはばからない。自意識過剰なのだ。『おもひでぽろぽろ』の27歳の私も、周りからの結婚しないのかという問いに「結婚しないの、おかしいですか?」と笑顔で聞き返してしまう。適当に合わせるとか流すということができない人間なのだ。小学校5年生で分数の割り算ができなくて、親や姉から「普通じゃない」といわれたそのときから、センシティブな思い出を大事に抱え込んで、そこに触ってくる人間に暗い顔をしている。だから細かいことをいちいち覚えていて、それを回想することが自分にとっての重要事項になっている。他人にもその話をする。

『魔女の宅急便』で、魔法使いのキキは物語の終わりに猫のジジと喋ることができなくなる。正確には喋る必要がなくなるのだ。ずっと一緒にいたジジさえ置いてけぼりにして、キキは大人になる。

ギバちゃんの車の中で27歳の私はいう。「大丈夫、もう、小学5年生の私は連れてこないわ」。エンドロールが流れる中、ギバちゃんの胸に飛び込み、そのまま車で走り出す私を、当時のクラスメートたち、そして11歳の私が見送る。このシーンの少し前から、27歳の私は小5で時間が止まったままのクラスメートたちと目を合わせなくなる。見えていないのだ。色鮮やかに見えていたはずのクラスメートたちを置き去りにして、車は走り去る。残された小学5年生の私の表情には、なんの感情も浮かんでいない。画面は暗転するまで、11歳の私を映し続ける。

大人になることは、不可避的に登場人物たちに大事なものを捨てさせる。

それでもやはり、「それ捨てていいの!?」と望月は思ってしまう。ギバちゃんの胸に飛び込んだ私は、この先11歳の私のことをあんなに色鮮やかに思い出すことはもうないのだろう。そう思うと、少し寂しい。

きっと、それを捨てない限り乗り越えられない壁をなんとか乗り越えようとして、僕らは大事に抱え込んでいたものを手放す。大人になることを要請するのはそんな状況だ。きっと、物事の順序は逆なのだ。人間は成長の結果として大人になるのではない。自らが手放した大事なものを忘れるために、自分が犯した取り返しのつかない間違いを正当化するために、人間は大人になっていくのかもしれない。

この社会において大人になることが諦めることと不可分の関係にあるのは、自身の魂の片割れを失うような痛みに耐えるためだ。失ってはいけないものをひとは失う。そのとき、大人になることで僕らはそれを乗り越えようとするのである。

この社会は年々幼くなっている。これもまた、大切なものを失わずに済む社会へと僕らが進んでいることのひとつの相なのだろう。肉体をごっそりとえぐられるようなひどい痛みを経験することもなく、人間は死んでいくことができる。叩かれることも叱られることもない僕らは、もはや無菌室の外に出ていくことはできない。それに逆らうことは、妊婦全員に自然分娩を強制するようなものだ。その選択肢はリスクが高すぎて選ぶことはできない。

痛みのない社会で、僕らはなにも失わずにどうやって大人になることができるのだろうか? 畑亜貴作詞『Daydream cafe』の歌詞にはこうある。

こころぴょんぴょん待ち? 考えるふりしてもうちょっと、近づいちゃえ 簡単には教えない こんなに好きなことは内緒なの

『おもひでぽろぽろ』は、いってみればこの「こころぴょんぴょんモード」(胡乱な造語をお許しいただきたい)を、ギバちゃんへの告白によって捨て去る物語だ。あらゆるプロジェクトは、それを妄想込みで話し合っている実行前の段階がいちばん楽しい。告白し、実行に移してしまった瞬間に、いまさっきまで確かにあった「こころぴょんぴょん」は現実の苦痛と向き合うことによって不可避的にしぼんでしまうのだ。もちろん、告白なしにその先の夢を描くことはできない。しかしそれは、ジジと喋れないキキのそれからの物語だ。

それはほんとうに捨てなければ行けない道なのかと、望月はその告白を、大人になることを無条件に肯定することができない。

僕らはなにも捨てなくても生きていける社会にいる。もちろんそれは幻想だ。僕らは一秒生きるごとに、あらゆる可能性を捨て去っている。生きているだけで大損である。

大切なものを捨てることによってではなく、耐えられないほどの痛みを肯定することによってではなく、ぼんやりと夢を見たまま大人になることはできないのだろうか? 「こんなにも好きなことは相手に内緒にしておく」ことを、こころぴょんぴょんモードな生き方も考えてみてもいいんじゃないかと話しかけてくる畑亜貴の歌詞を聞きながら思う。

結局のところ、暗転によって見えなくなった11歳の私はそのあとどうしたのだろうと、望月は幕が下りた後も気になってしまうのである。

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