教科書のつまらなさについて

ニュースを見ないあいだに共謀罪法が成立していた。

16日(金)付けの朝日新聞朝刊は、「刑事司法の大転換点」という大見出しとともに一面に東京版社会部部長の言葉として「民主主義の荒廃した姿」という記事を載せている。いわく、「『監視社会』『密告社会』の到来を心配する市民の声を顧みずに、安倍政権は共謀罪法成立に突き進んだ。目の前に広がったのは、成熟とは正反対の、荒廃した民主主義の姿だ。共謀罪の本質は、捜査当局に『テロ対策』を口実として幅広く監視を許す点にある」。

ごもっともだ。
この法律が治安維持法の再来であることは疑いようがない。警察に引っ張られていった知人が、警察署の前で太ももに五寸釘を生やして打ち捨てられているので引き取りに行く、という世の中になってもおかしくはない。権力者は、権力を持つ者の意だ。権力は、権力を見せびらかすことを権力者に要求する。手元に木の棒があったらとりあえず他人の頭を叩きたくなるのと同じことだ。よって権力者は、放っておくと「権力の座を引きずり降ろされるまで無限に他者を権力で殴打する」という行動に出る。五寸釘は、そこまでやってもだれからも文句が出ないという権力の誇示なのである。権力の濫用は、権力者がその座を追われるまで続けられる。僕らがその圧政にいよいよ我慢ができなくなるまで、つづく。

望月が朝日新聞の記事を紹介したのは、たぶん治安維持法が成立した当時も朝日新聞はこのような文調で記事を書いていたのではないかと想像するからだ。で、よく知られているように朝日新聞をふくめた新聞という新聞が戦時中の戦争翼賛に加担している。要するに、この朝日新聞の記事は、「それでも、我々は国民の『知る権利』を守っていく」という宣言で締めくくられるこの記事は、政権の推し進めようとしている社会的な趨勢にとくだんの影響力を持たないのである。まあそんな影響力を行使できるようならそもそも共謀罪法成立を防げているのだから、ある意味では当たり前田のクラッカー。

朝日新聞が悪いわけではないのだ。だが、望月は朝日新聞の記事の「読まなくてもだいたい言ってることの想像がつく感じ」にある種の手抜き間を感じざるを得ない。し、この記事のいっていることに同意できないこともある。「民主主義の荒廃」という文句がそれだ。すんごい勝手なことをいわせてもらう。この事態を「民主主義の荒廃」で片づけてしまうのが、朝日新聞的なエリート主義の構造そのものなのだ。民主主義の荒廃が当たっているか間違っているかは問題ではない。仮に当たっていたとして、その文章に国民を殴打する権力を止める力がないことが問題なのだ。そして構造的に、この記事を書いた者は国民が殴打されるその日を待ちわびるようになる。民主主義を荒廃させた張本人であるところの国民が権力にぶたれるとき、「ああ、朝日新聞は正しかったのだ」と言うからだ。一面大見出しで伝えられるこの記事に、国民を守ろう社会を変えようという意識は薄いと言わざるを得ない。

この事態は民主主義の荒廃ではない。望月はそういってみる。朝日新聞が主張するのは、悪法が成立するのは民主主義がうまく機能していないからだということだ。もっと直接的には、その原因は国民の怠惰さに求めようとしている。政治に目を向けず、自らの知る権利を放棄しようとしているようなその怠惰さが、悪法の成立のいちばんの原因である、と。そうかもしれない。そうかもしれないが、そんなことを言ったところで権力の暴走を止められないのは70年前にはっきりしたじゃん。戦争止めたいでしょ? 止めたいなら、前回とは違うことを言ってみなければならない。もちろん、この構造は朝日新聞の事情によるところが大きい。国民の怠惰さをやり玉に挙げておけば、「うちの新聞買って勉強しろよ」と言えるのだ。でも、大メディアに勤めるということはそういう社内的な風潮のなかで記事を書くことだということは、全社員が分かっていなければならないし、もちろんみなさん重々承知の上だろう。言うまでもないことをいってしまった。なので、ことの真偽はともかく、この事態を「民主主義の荒廃」であるという文句は役に立たない。なので、これは民主主義の荒廃なんかではない。望月はそういってみる。

さて、治安維持法の再来がろくにニュースも見ない望月のような怠惰な国民のせいでないとしたら。登場人物がいまのところほとんどいないので、ここでは仮に悪いのは朝日新聞であるということにしておこう。正確には、世の中の悪いことはすべて国民のせいであるみたいなことを言外に主張してしまうエリート主義のせいであるということにしておこう。うん、とても座りがよい。エリートの定義とは、「自分はそんな怠惰な国民とは違う勤勉な人間である」という自意識を持っている者のことだとする。

政治が悪いのはエリート主義のせいである、と望月は主張してみる。エリート主義とは違うな。勤勉主義とでもいおうか。政治が悪いのは勤勉主義のせいである。勤勉なのは悪いことだ。なぜなら、勤勉な人間は権力者をまえにしてYESマンにならざるをえないからだ。権力者とは権力で他者を殴打する者のことだ。そして、勤勉であるということは「権力で殴打されることを強いられる」ことを暗黙の前提としている。ゲームを楽しむ小学生を勤勉であるとはいわない。自分のやりたいことを延々やっている人間は、掃除もしないで怠惰に映ることはあっても徹夜でダンジョンをクリアし続けることを勤勉であるとは言わない。どんなに苦しくても辛くても、他者に与えられた仕事をこなす人間は権力者の目から見て勤勉な人間となる。やりたいかやりたくないか、そんなことはどうでもいい。他者に強いられた仕事をもくもくとこなせるエリートだけが、社会的に階層を登っていけるのだ。それは、権力の行使を肯定する人間観だ。エリートは、勤勉であるがゆえに勤勉さによって階層化される社会システムを無意識的に再生産しようとする。そこでは、権力にもっともぶたれた人間が、つぎに他者を権力でぶつ立場を手に入れる。だから彼らは怠惰な人間をなによりも嫌う。エリートは構造的に国民を嫌悪している。

まあそれはいい。思想信条の自由は国民の権利である。だが、同時に政治はあらゆる思想信条から自由でなければならない。治安維持法の再来は、政治が「強いられる」ことこそを怠惰な国民の義務であると錯覚した結果だ。黙って従う、それがこの国の美徳であることが、共謀罪法成立のそもそもの原因である。そしてそれは、もはやこの国の黎明期から再生産され続ける、「階層を登るためには権力にぶたれなければならない」という社会的な病理の帰結であるといえる。治安維持法の再来は、国民の怠惰のせいではない。怠惰な人間は勤勉な人間に管理されてしかるべきであるとする人間観のせいである。民主主義が荒廃したわけではない。怠惰な人間が、それでも民主主義にコミットできる仕組みを考えてこなかった、エリートたちのネグレクトのおかげなのだ。

エリートはなぜエリートたりえるのか? それは、モノクロのつまらない教科書を「つまらないまま」読むことができるからだ。ふつう人間はつまならいものを覚えることはできない。だが彼ら彼女らにとってそれを「強いられる」ことは日常である。教科書はそもそも人間が効率よく情報を吸収できるようにはつくられていない。認知的に言ってめっちゃダサい代物だ。プレゼンの面白さが株価を操作する時代にあってはその存在自体がありえない。が、エリートはそれが読めるという能力によってエリートたりえている。だからエリートは教科書をそのままにしておくのだ。それは勤勉なエリートを識別するための信号だから。

政治もまたしかりだ。エリートは、政治をもんのすごくつまらないものにして放置している。もちろん意図的にだ。意味不明な政治的言い回しで国民をけむに巻くという手腕は、つまらないものをつまらないまま解読できるエリート式の暗号である。そんでもって、テレビでも新聞でも、エリート的な価値観がはびこる職場というのはもちろんこのエリート式の暗号を解読し、そして「つまらないまま」新聞に載せるのだ。彼ら彼女らがエリートだから。エリート式の暗号を解読できる人間だけが、つまらないことを延々やれる人間だけが偉いのだという人生観をもった人間だから。それをさして、「民主主義の荒廃」を言い立てるのは望月は間違っていると思う。もはやメディアにおいて正しいことは二次的な問題と化している。ファクトチェックがなされているかどうか、それは「国民が面白いと思うかどうか」にとってかわられるべき時代がきている、と望月は思う。

面白くもない、国民に呼びかけることのできない情報は、読まれない。この点において、つまらないものをつまらないまま出すエリート主義は国民を説得できない。この社会において、もはや面白いことは正しいことよりも優先順位が高い。戦争を止められないことを怠惰な国民のせいにすることに意味はない。教科書のつまらなさを認めるべきだ。認めなければ、我々は権力にぶたれるこの状況を止められない。勤勉なエリートか怠惰な国民、そのどちらかが全滅するまで権力の暴走は止まらないのだ。エリートであることは人生の敗北を意味する、そんな時代が、たぶんこの国にはじめて訪れようとしている。

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